2007-05-13

天川

天川というと、角川映画にもなった内田康夫の小説、天河伝説殺人事件を思い出すひとが多いだろう。私も、それしか知らなかった。
ちょっとしたきっかけで知人に教えられ、天川の地を訪れることになった。

1日目は、吉野林業の一角をなす天川の山林を見学し、2日目の朝に天河大辨財天に参拝した。これもたまたま氏子の方に案内してもらい、非常に幸運なことに、拝殿や能舞台の上まで上がることが許された。普通は、氏子さんでも上がれないそうである。

天河大辨財天は、地元のひとは「べざいてん」と発音する。言い伝えでは、飛鳥時代に役行者が弥山の頂上に弁才天を祀った。その後、大海人皇子がこの天女に祈って壬申の乱に勝利を収め、天武天皇に即位してから弥山の麓に「天の安河の宮」を造営したのが、今の天河大辨財天の始まりだそうだ。弥山の頂上には奥宮が今でもある。

さて、私は推理小説でしか知らなかったこの天河大辨財天は、今はやりの「スピリチュアル」な方面の方々には、非常に有名な神社であるらしい。ネットで検索すると、いくらでもそういう情報が出てくる。そういう先入観で見たくなかったので、あまり気にかけずに、居ずまいだけをただして参拝した。

想像していたよりは小さい神社で、おどろおどろしさも、仰々しさもない。田舎の清楚な神社という印象。ただし、使っている木は、吉野檜の特上のもの。能舞台の床板は、1枚300万だとか・・・

ちなみに、天河大辨財天は芸能の神様であり、多くの芸能人がお忍びで参拝しているし、例大祭には観世流の家元が能を奉納する。だから、能舞台は、本殿にいる神様に向かって演じるような配置になっている。

その能舞台に上がらせてもらったのだから、相当運がよかった。緊張してそろそろと足を運ぶと、なぜか心臓がドキドキしてきた。そこには同行した数人しかいないのに、なぜか動悸は激しくなり、舞台の中央で拝殿に相対したときは、やや胸が痛むほどになり、なんだか怖くなって舞台を降りた。

不思議な気持ちで、社務所まで降り、おみくじを引くと、なんと凶!

周りの人たちが、凶は悪くないらしいよ、などと慰めてくれるが、読めば読むほほど「生き改めよ」と書いてある。う~ん・・・

これがトラウマになったのかどうか分からないが、大阪に帰ってきて、そのときの神社の写真を見ると、またしても少々動悸が始まり、写真をしまうと、グッタリとした疲労感に襲われる。(だから、このブログにも写真は無し)

これをスピリチュアルとかオカルトとかの話にするつもりではない。ただ、何となく「このままじゃダメだよ」と、背中を押してもらっているような気がしてならない。何かしら、ステップを上がるためのきっかけになったら良いのだけれど。

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2006-09-04

「家を建てる。」出版しました

長らく長らくのご無沙汰です。あたふたと2ヶ月半が過ぎ,いつの間にか虫の音が変わり,朝晩は寒いくらい。なんと時の経つのは早いものかと嘆いている間もなく,お日さんは昇って沈んで昇って沈む。

でも,そうこうしているうちに,ようやく懸案の本の出版ができた。

Hyoushiweb

「家を建てる。」-家づくりはたたかいだ!- 彰国社

装丁も語り口もソフトにはしたけれど,内容は辛口。業界が言わないこと,目を向けないことをどんどん書いたつもり。

もともとは,自分の防備録のつもりで書いたメモがだんだん膨大になり,ふと思いついてそれをネタにメルマガを書いたのが始まりだった。週1回で半年間,つまり25回のメルマガで元のメモを会話形式に書き直した。

更にそれを,一続きに手直しし,更に更に編集者の意見であれこれ書き直し,挙げ句の果てに説明用のイラストまで手書きする羽目になった。こんなに大変なものとは思わなかった。政治家や芸能人がゴーストライターに書かせる気持ちがわかるような気がする。

関西の大きい書店には店頭に置いてあるはず。無い場合はネットか,当事務所のHPから申し込んでいただいてもOK。こちらは少しだけお得。(定価\1890 →1800送料込み)

明月社

なお,近くの図書館でリクエストしていただくのもGOOD

ということで,ぜひともご一読を。

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2006-04-29

この他愛ない日常を

このところ、幸いにしてとても忙しくさせてもらっている。で、寝る時間も3時とか4時とか5時とかで、さすがに昨夜は10時過ぎに身体が言うことを聞かなくなった。

よろよろと立ち上がって、ふらついていると、5歳になった娘が冷めた声で
「あ、ボケてる」

それを聞いた家内が 「ビンゴ!」と言うと、娘はすかさず
「ビンボウ?」

家内は大喜びで「ビンゴビンゴ!!!」

てなことを言いながら、風呂にも入らず布団へ直行。
混濁する意識の中で、娘の顔と最近の新聞記事が交差しつつ、こんな他愛ない日々を守っていくには、どうしたらいいのだろう、なんて思いながら。

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2006-01-27

交通事故より安全ならいいの?

交通事故で死ぬ人は、年に7000人くらい(日本国内)。 たしかに、BSEで死ぬ人よりは少ない。 て言うか、年に7000人以上死ぬような原因は、そうそうあるモンじゃない。

明治以来、地震でなくなったのは約20万人。半分は関東大震災だが、年に平均しても1500人。  もっとアブナイ風呂の溺死でも、年に3000人。火事で死ぬのは年に1200人くらいだ。

ベンさん式で言うならば、姉歯さんも小嶋さんも、実に正しいことをしたことになる。

奇しくも、小嶋さんは「大地震が来て倒壊してから発覚したことにしてくれ」と頼んだらしいが、交通事故の5分の1しか死ぬことのない地震被害に対しては、このくらいの配慮が「適切な判断」ということになるのだろう。 地震が来るまでは、住民は安くて広い快適マンションライフを約束されていたのだから。

さらにベンさん式を続けると、テロ対策など愚の骨頂と言うことになる。 日本はおろか、アメリカでさえ、「テロ」で死ぬ人が交通事故より多いわけがない。
(もちろん、自ら行使したテロリズムによって「殺した」数は交通事故よりも多いかもしれないけれども。)

普段、私たちは差別されると言うことに直面する機会が、案外少ない。 まあ、せっかくのこの機会に、差別されるとどのくらい気分が悪いかと言うことを、じっくりと味わっておくのも良いかも知れない。 プリオンを味わうハメにならないように。

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2005-11-25

消費者 という言葉

「来年3月の期末決算も日経の上場1332社調査では、バブル期の1991年以来の3年連続最高益が確実」  という記事が日刊ゲンダイ(メール版)に出ている。

その一方で、 「国税庁が9月に発表した「民間給与の実態調査」では、昨年のサラリーマンの平均年収は438万円。前年を5万円下回り、7年連続の減少」

「東京などでは昨年の平均実労働時間が4年ぶりに増えている。会社にこき使われた結果、全国の過労死者の数は158人」

ものすごく単純なことが、なぜ経営者も国も分からないのか不思議だ。

エンドユーザーがものを買わない限り、景気は絶対によくならない ということを。

なぜかって エンドユーザーが買う以外の投資は、エンドユーザーが買うものを作るための投資だから。

いくら人件費をケチって設備投資しても、最終的にものが売れなければ、全部無駄な投資に過ぎない。

ただ一つ例外は、輸出に頼る場合。 しかし、これも政治的アメリカに押さえ込まれ、経済的に中国に負けている以上、ほとんど期待できない。

付加価値を生む生産をして、儲かった分を社員に配分する以外に、景気をよくする方法なんてあるはずがない。 ものすご~く単純極まり無いはなし。

だいたい、消費者なんて言う言葉が、そういう理屈から出てきているのだとばかり思っていた。 だって、生活者や生産者ならば分かるけど、消費するために存在している人間なんているんだろうか。

何かのために、手段として消費をしているに過ぎないのに、これだけ消費者という言い方が一般的なのは、それが経済をまわす唯一の本質的な原動力だから、なのだと思っていた。

しかし、いまの企業や国の動向を見ていると、消費者というよりも消耗者というか、消滅者というか、「収入は少なく、消費は多く」 とういことらしい。

鉄筋を減らして、安モンを高く売りつける商売では、消費者は消耗者、消滅者となり、経済はやがて自滅する。

かといって、職人や工務店や我々設計者の人件費を削って、買いたたいた家作りをしていては、平均賃金は下がるばかりで、やはり消費者は消耗してゆく。

そのためには、本当の付加価値を実感できる家作りが必要なのだろう。 同じ材料の組み合わせでも、「この家ならば少しくらい余計にお金を出しても惜しくない」、と思ってもらえる家作りをすること

これは、建築家にとって重要な使命なのかもしれない。 こんな時代には。

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2005-09-23

ヴォーリズの建築

toukasaikan 明月、ただいま満腹です。 京は四条大橋、東華菜館に行って来ました。 知る人ぞ知る名建築です。 そう、あのメンソレータムのヴォーリズさんの作品です。 できたころはフレンチレストランだったそうですが、現在は水餃子で有名な中華料理店。

80年前にできたこの建物、焦眉はこのエレベーターです。 通天閣を遙かにしのぐ機能美を見せています。 もっとゆっくり見たかったけど、添乗員のおっちゃんがいたので、ちょっと残念。

80年前、1925年といえば、治安維持法と普通選挙法ができた年です。 ヴォーリズさんは、キリスト教者としてこの時代をどんな思いで生きたのでしょうか。 ただ、分かっていることは、戦後に天皇の戦争責任を問わないようにマッカーサーに掛け合ったということです。

なぜそんなことをしたのでしょう。 今となっては謎ですが、子爵の娘さんと結婚し、日本の貴族社会の中に同化しようと努力した結果なんでしょうかねえ。

ヴォーリズさんの設計した建築は、綺麗なんだけど、どこか陰がある、そんな気がしていた理由は、こんなところにあるのかもしれません。 やはり、綺麗な家よりも、綺麗になれる家の方が良いですね。

たぶん、ヴォーリズさんも、宣教のためにと思って、妥協に妥協を重ねたんでしょうね。 なんか、その思い気分が伝わってくるようです。

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2005-09-18

自分の境界線

「最初に一人の人権が侵されたときに、すべての悲劇が始まったのです」  ニュールンベルグ裁判という映画のセリフを、羽仁五郎師が自伝的戦後史の中で紹介しています。 このセリフは、25年間、ずーと私の頭から逃げていったことはありません。

その意味では、悲劇はもうずーと前に始まっているんです。 この9.11は始まりではなく、むしろ仕上げの始まり、と言うべきかも。

今感じるのは、個人というか自分というか、その境界線がものすご~く小さくなっているということ。 どこまでを自分の問題と考えるかというと、せいぜい家族と親しい友人。 以上終わり。

なんで、急にそれを言い出すかというと、先日、子ども通っている保育園の父母会に出席したんです。 そこで、役員の父母達がさかんに何か言っています。 曰く、門の前で先生がチラシをまいたり署名を集めると、断りにくいからヤメさせよう。 市にも申し入れしている。

背筋が寒くなる思いでした。 毎日子どもらを預けている先生達の基本的人権や言論の自由よりも、断ったときの気まずさのほうが優先される。 先生がちょっとでも楽をしようと市に要望を出すことに、サボりの烙印を押す。

最近シバレイさんのブログを見ることが多いのですが、その中で言われている魔女狩り。 魔女は郵政民営化に反対するもの、と言われていますが、むしろ、魔女はクミアイだと思います。

国鉄、電電公社、ときて、郵便局。 民営化とは組合つぶしです。 もはや、組合とは公務員がさぼって税金を無駄遣いするための組織、という意識が国民に根付いてしまったようです。 あの、父母会の様子を見ているかぎり、そう感じないわけにいきません。

もちろん、そう言われてもショウガナイようなことばかりしていた組合自身にも問題はあります。 自滅と言っても良いかも知れません。

組合自身が、自分の組合のことしか「自分」と感じられなくなっていた。 とすれば、他の人が、組合が潰されることを「自分」の問題とは考えてくれないのは、当然と言えば当然。 

当然ではあるけれども、だからといって、利用者である父母が、先生の組合を潰すために市当局と手をつないでいる というのは、もう、あまりに寒い構図です。

これは、家づくりでも見られる傾向です。 価格、プライバシー、住み心地。 こればかりが強調される。

価格は仕方がないとしても、自分たちの敷地境界線と外壁面の内側のことしか興味がない。 地球の表面に棲息しているという実感がない。 自分が自分の自分に。

これって、綺麗じゃないとおもうんですね。 新幹線に乗って富士山を見ると、裾野がひろがってどこまでが富士山か、よくわからない。 これが綺麗なんですけどねえ。

こうやって、組合を目の敵にして、自分というものの境界をどんどん小さくして、誰かの人権が侵されようが何の傷みを感じるどころか、一緒になって魔女狩りに参加して・・・・

そうそう、もっと恐ろしい話。 たぶん、今の30代より若い連中の多くは、「基本的人権」という概念を理解していない。 生まれたときから空気みたいなものだったから、全く実感がない。 ありがたくも何ともない。 直接自分のものが無くなって初めて、あれ? と思えば上等な方でしょう。

もう、ココまで来ているんです。

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2005-09-16

戦争反対のココロ 再考

さきほど、「戦争反対のココロ」に、やまもとさんがコメントを付けてくださいました。 責める側の戦争と、侵略される側の戦争を十把一絡げにしたらイカン という主旨かと理解しました。

私、明月、今を去ること四半世紀の高校生時代、羽仁五郎さんの大ファンでした。 代表作である「都市の論理」は難しかったものの、「教育の論理」とか「自伝的戦後史」とか、もうかぶりつき状態でした。

やまもとさんが言われていることは、羽仁五郎師の言葉と全く同じだなあと思いながら、コメントを読ませてもらいました。 羽仁先生流に言えば、戦争反対とだけ言うヤツはものを考えていない ということなるのでしょうか。

実は25年ぶりに「自伝的戦後史」を読み返しているところだったので、ピンときました。

ところで、なぜ羽仁五郎師の本を読み返しているにもかかわらず、戦争反対なのか。 それは、私の浅学の範囲では、侵略戦争に反対する戦いに「戦争反対」というスローガンが投げつけられた例を知らないからです。

そう言う場合は、たいがい「暴力反対」「テロ反対」になります。 なぜなら、末期のベトナム戦争など少数の例をのぞいて、侵略された側は、少なくとも正規軍の力はメッチャ弱いわけです。 だから、「戦争」にならない。

ここで戦争というのは、正規軍の戦いというイメージで言っています。 多分、あっという間に片が付いてしまって、侵略された側の手段としては、非正規軍つまりゲリラ、テロしか方法が無くなってしまうと思うのです。

ベトナムは正にそうでしたし、今のイラクを見ても然りです。 ベトナム反戦のスローガンが解放戦線に投げつけられたことは無かったのではないでしょうか。たぶん。

というわけで、私としては「戦争反対」というのは、決して間違っていないと思うのです。 少なくとも今の日本で。

むしろ、難しいのは「暴力反対」とか「テロリズム反対」という意見です。 私、明月、シュタイナーさんも好きですから、子供に手を挙げることはしませんし、これまでの人生で面と向かって暴力を行使したことは数えるほどしかありません。

その意味では、暴力は好きではありません。 ヤクザにしろ、警察にしろ、何だか分からないけど偉そうにしている人にしろ、背景に暴力を匂わせて自己主張する人たちは、みんな嫌いです。

けど、そのうえで、なお です。 ここで「暴力反対」などと言ってしまうと、それこそ羽仁先生の言葉に背くことになります。 思考が停止状態 ということになってしまいます。

ここはやはり、やまもとさんのコメントの言うとおりです。 ガンディーがすばらしくて、アルカイーダは最低だ、と言ってしまっていいのかどうか。 多くの識者の皆さんにも、これはよく考えてもらいたいですよね。 確かに。 強者が弱者の抵抗権を封じ込める言葉 これが「暴力反対」「テロ反対」であることは確かです。

ただし、一つだけ脳みそに残しておきたいことがあります。 暴力というのは、全体の中では弱者のものであっても、一つ一つの戦闘場面では勝者、強者になる可能性があります。 また、そうでなければ意味がないですね。

そうすると、悲しいかなどうしても出てくるのが、強者の奢りなんです。 過去の革命はすべてこれで崩壊したといってもいいのではないでしょうか。 あの、マンデラさんですら、奥さんの不正が取りざたされていました。(我が家の神棚?にはマンデラさんが大阪に来たときの生写真が飾ってあります)

その不正の真偽のほどはわかりませんが、弱者の間はものすごく発揮されていたモラルが、勝ち始めるにつれて崩れていくというは、ありとあらゆる歴史のシーンで見られたことです。

この辺のココロの問題というのは、勝ち馬に乗ろうと「改革改革」に引っ掛かってしまう庶民のココロの問題にも通じるような気がしています。 もちろん背景が違うので、歴史的には全く別物ですが、しかし、どうしても引っ掛かってしまうですねえ。

でも、これだけでは 「ではどうするか」 がないですね。 やっぱ 思考停止だ と羽仁先生のお叱りを受けそうです。

で考えたのが、このココロの問題という場合の、「モラル崩壊」の反対は何かというと「綺麗でありたい」「綺麗になりたい」という美への希求心だと思ったんです。

これは、教え込まれたものでなく、従って、類として生きていくという共生的な要素もあれば、より繁殖力の強い子孫を残そうという優勢思想的な側面もあります。 両刃の剣ですが、もう何が何だか分からない今どきの教育や常識なんかよりは、はるかに頼りになる、依って立つことのできる場所じゃないかなあ と考えているわけです。

そんなこんなで、綺麗になる家 にたどり着くんです。 あ~ 長かった。

以上が、なんで「戦争反対のココロ」なのか、という言い訳でした。

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2005-09-12

こんな時代の家作りは・・・

私、明月、「こんな時代の家作りは、生き抜くためのたたかいだ」という本を書きました。出版できるかどうかは、今後の私の精進次第、というところです。

それは兎も角、これを書いていたときの「こんな時代」と今日からの「こんな時代」は、どうも様子が違ってきたようです。

住んでいる人にこそ綺麗になってもらいたい。 綺麗な人ばかりの世の中になったらすばらしいなあ。 そう思ってこのブログをはじめたのですが、どうやら、綺麗の基準が壊されてしまったのかと、夕べから暗澹たる心持ちで過ごしております。

そう、選挙の結果です。 でも、自民圧勝をどうやらというポリティックスな話ではないんです。

私の住んでいるところにも、いわゆるマドンナ落下傘部隊がやってきました。 何を考えているのか、どんな人なのか、さっぱり分かりません。 それに、申し訳ないけれど、私の基準で言う「綺麗な人」ではないんです。 比較的若くて化粧は濃いけど。

もちろん他の候補者も人と成りは知りませんが、何度か選挙を重ねると少しは情報が入ります。

ところがどっこい、このオネエチャンが圧勝してしまったんですね。 やはり。 2/3の人が投票にいって、そのウチの半分はこの人に入れたと言うことは、その辺を歩いている人らの三人に一人はこの得体の知れないオネエチャンに入れたということ。

たぶん、小泉総統、じゃなくて総裁の子分だと言うだけで。

わたしは、選挙というのは、利益誘導と、綺麗なものが好き、という価値観のせめぎ合いだと思っています。 たいがい目先の利益につられるので、綺麗好きは少数派ですが、それでも息の根を止められることはなかった。

あ、誤解の無いように言いますと、候補者の話ではなく有権者の話です。 本当に綺麗好きの候補者が、いまだかつていたのかどうか私は良く知りません。

ところが、今回の利益誘導は、目先の利益じゃなかった。「コッチに付くのかアッチに付くのか」という形で問われました。 まさに、こっちのみ~ずはあ~まいぞ、あっちのみ~ずはに~がいぞ という調子です。

よくみれば、甘い水がどこにあるとも誰にあげるとも書いてないのに、コッチに付かないと損する! と雪崩を打ったのが今回の結果でしょう。

俗に言う、勝ち組の尻馬に乗る ということでしょう。 様子を見ては、勝ちそうなほうにダダーと流れていくという、一億総小早川現象と言えばいいのでしょうか。 

こうした意識の変化の中で、少しでも綺麗なものが好き、という価値観は存在すらできなかったような気がします。 というか、ギラギラした権力欲が綺麗に見えるという、そういう価値観の転換があったのではないでしょうか。

これを一言で言うと、ファシズムです。 人は、何だかんだ言っても、好きなことしかしないんです。 ヒットラーが好きだから、あーなったんです。 決して全ドイツ人を強制していたわけではありません。 そんなことは、いくらゲシュタポでも無理です。

つまり、「勝ち組に乗り遅れるな、エライことになるぞ」という利益誘導を背景に、ヒットラーがカッコイイ、ナチス党が綺麗だという価値転換がされたとき、ファシズムが始まったのではないでしょうか。

そうであるならば、2005年9月11日は、日本にファシズムが始まった日、ということかもしれません。

そうした、価値転換がされてしまった中で、どうやって綺麗という価値観を伝えていくのか。 私、明月、暗澹としているのでありました。

でも、一つだけ決めたことがあります。 いくらこの雪崩現象の中でも、私と同じような思いを持つ人もいるはずです。 じっさいウェブ上をさまよい歩くと、色んな人は沢山いるんだ、という思いも強くしています。

ですから、そういう人たちを探して、少しでもつながっていきたいと思います。 もちろん、取りあえずはウェブ上での話ですから、どんな方々なのか分からない部分は大いにあります。 けれど、そこは当たって砕けろで、やってみたいと思います。

ちなみに、私、明月、支持政党もありませんし、だいたい、党というような組織を信じていません。 どんなにきれい事を言う政党でも、本音の価値観は違っていたりしますし、逆にどんな政党の中にも、心ある人もわずかにいると思っています。

以上、独り言でした

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